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大和心への回帰 268.「手放す」ということ。 [政治]

大和心への回帰 268.「手放す」ということ。
http://www.yamatogocoro.com/article/464628774.html より

賢明な読者の方々の多くはとっくにお気づきのように、このブログとは相容れない、違和感を感じるコメントが混入している…が、敢えて掲載している意図をご察しいただきたい。看破できないと思っての投稿であろうが、本性が曝されるだけのことである。
これ以上は控えさせていただく。

SNSを含めた広義のメディア媒体によって、様々な情報が発信されているが、それをどう受けとめ、どう判断するかはいうまでもなく自分自身である。核心がどこにあり、違和感を感じるものがあれば、それに惑わされるのも看破するのも、そして惑わされる振りをするのも本人次第である。

このブログに長くご訪問いただいている読者各位…背後に控えられている多くのロム専の方々を含め、今まさにその動向を探っておられる。いたずらに動揺する必要もなければ、撹乱されるには値しないということだ。
一度として正面から反論したこともなければ、敢えて肯定も否定もしてこなかったのには理由がある。

そのうちに自ずと答は出てくるはずだ。今はいたずらに多くを語ることはない。

今回は「手放す」ということについて取り上げてみる。

目指すは「いつ死んでもいい」という心境で生きることにあるが、それは至難の業であることに気づきながらかなりの時が経った。

「いつ」というのは「今」と置き換えてもよいが到底「今死んでもいい」という心境にはなれないのである。何故ならばやり残したこと、反省や後悔、他人への迷惑などが次々と脳裏を過るからである。

当たり前のことだが、生きているものとは死んだ経験がないものであり、この世は全て死んだ経験がない人々で構成されているのである。
そしてその多くは「死」という未知で未体験のものについて恐怖心を抱いている。
ところで、臨死体験をした人たちは一様に、その瞬間は「至福の時だった」と振り返られる。それを契機に霊感に目覚めたり価値観が大きく変わるようだ。

死の淵から甦った方々が「死の瞬間は至福の時だった」と証言しているにも拘わらず、生きているものにとって、それでも死は恐怖である。

今日一日で死を迎えることが確定したとすれば、やり残したことや残された家族のこと、そして反省や後悔が次々と脳裏を駆けめぐるだろう。しかしこの期に及んでは、どんなにジタバタしても全て手遅れであり、どうにもならないことを思い知るのである。

そしてその全てを諦め、手放すしかないことに、ようやく気づくことになるのだ。

そしておそらく生きながら「手放す」ことができるようになった時、本来の自分に目覚めるのではないだろうか。
今はまだその途上にいる。
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