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昼寝ネコの雑記帳  今日は選曲が二転三転している [政治]

昼寝ネコの雑記帳  今日は選曲が二転三転している
https://hiruneneko.exblog.jp/29640100/ より

 珍しく、なかなか選曲できない日だ。二転三転して、ようやくピアソラの「悪魔のロマンス」に落ち着いた。タイトルを見ずに、曲想からだけだと悪魔にはなかなか結びつかないと思うが、言われてみればそうかなとも思う。いわゆる、終焉を目の前にし、力を失った悪魔の悔悟と虚脱に染まった懐古のひとときなのかもしれない。人目を避け、誰にも見せられない、見られたくない敗軍の将の、苦渋の表情なのかもしれない。

 地上を圧政と暴力・恐怖によって支配し、あらゆる謀略と陰謀で人々を悪に誘い、破滅への道を歩ませてきた悪しき力。権勢と財力をほしいままにしていた、輝かしい時代も終焉に近づきつつある。かつての手法が徐々に通用しなくなり、闇に紛れて実行に移された数々の隠れた悪行が、いつしか白日の下に曝され、人々の冷たい視線が突き刺さるようになっている。

 これほどまでに、ほぼ無数の論点が表面化した時代が、かつてあっただろうか。ひとつの論点に全人生を賭して走り続けられる人は、私にとっては畏怖する存在である。論点は問題意識によって、様々に異なって存在する。しかし、どれをとっても、それだけで世の中の全ての問題が解決するわけではない。さらにいうなら、人の生涯で個人的な課題として背負い、乗り越えなくてはならない重荷の種類は、それなりに多いと思う。

 単数の論点にひたすら拘泥し、固定化された理論と観念を貫徹する姿は、純粋で尊いのかもしれない。しかし、黒白のどちらの側にいたとしても、最終決着がついたとき、それは自分の人生のほんの一部であることに気づくはずだ。勝利の歓喜に酔い痴れても、一夜明けるなら、昨日までの興奮に満ちた希望と使命感は雲散霧消しているかもしれない。いや、雲散霧消するはずだと思っている。

 そうならないためには、数多の論点を概観しつつ、限られた一度の人生で、人間として崇高な目的は何かを突き詰めて考えるという、苦難の行軍が不可欠だと考えている。しかし、その苦難は人に形而上学的な開示を与え、ある種の悟りと確信をもたらすはずだ。その目に見えない領域の葛藤は、人が地上に生を受ける前から備えられた、神聖な訓練の機会であり、それらの葛藤と格闘する人には、最終的な平安と達成感が与えられる。そのような図式が人の生涯として目に浮かぶ。

 人は一生の間に、実に様々な事物に対峙し、時には迷い、時には誤った選択や判断をする。しかし、それを怖れる必要はないと思っている。過ちに気づき、反省し、立ち上がってまた正しいと思う方向に向かって歩み始める。それもまた、人に与えられた成長の糧なのだと思う。

 まるで禅僧にでもなったかのような、内省的な精神状態だ。それもこれも、国内外の政治情勢を概観し、終焉の近い人たちが多いと感じるからだろう。過去の悪行が暴かれ、まるで鋭い刃を持つブーメランが飛来し、自分自身の身体と心に突き刺ささり、もがき苦しんで凄惨な最期を遂げる治世者や政治家の姿が目に浮かぶからだろう。

 不吉な預言だろうか。悪しき人々にとっては不吉な予言かもしれない。しかし、善良な人々にとっては、本来の意味の平和で平安なひとときの再来の予兆になるだろうと思う。

 私自身は、善良な人間になりたいという希望とともにある。しかし、自分のことを最も良く知る私自身は、脳細胞に記憶として残留している、過去の遺物という亡霊と、ときどき対面することがある。

 人間の生き様も、政治家の生き様も同様だと思うのだが、いつまでも相手の過ちをあげつらう人格は、決して人からの尊敬と信頼を得ることはできない。寛容さや慈愛という、ある程度の忍耐を伴う犠牲的徳性こそが、善人をさらに善へと導くのではないだろうか。

 あれこれの過ちを繰り返しながら人間として60数年を生きてみて、さらには妄想ネコとして3千年を生きてきて、ようやく到達した悟りの境地の、ほんの入口である。これからも自戒の気持ちを失わず、迷える子羊たちが戻り来て、安住の地と感じていただける領域を、なんとか形あるものにしたいと願っている。

 さて、何年かかることやら、そしてあと何年生きられることやら。それだけは未知数である。
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