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伊能忠敬のパワーの源泉の秘密 [政治]

伊能忠敬のパワーの源泉の秘密

伊能忠敬は、実業で稼ぎ楽隠居出来た立場でありながら、なぜ50歳を超えてから、勉学に励み、難行苦行とも思える全国測量の旅に出かけたのか?
伊能忠敬の玄孫である加瀬英明が、知られざる伊能忠敬像について語ります!
<伊能忠敬について知る>
・忠敬は千葉県九十九里町小関で生まれた。幼名は小関三治郎
・18歳で千葉県佐原にある伊能家に養子入り
・伊能家は、忠敬の活躍により酒・醤油の醸造や水運業で大成功をおさめる
・日本が衰退している原因は「合わせること」ばかりやるから
 受験、就活、仕事はいわれたことをやるだけ・・・すべて合わせること(by加瀬)
・江戸幕府は教育に一切関与していなかった。寺子屋はその地域独自の教育を行っていた(だから現代の文科省はほとんど不要!)by加瀬
・事業を軌道に乗せた忠敬は早々に家督を息子に譲り、
暦学の勉強をするため 江戸・深川黒江町に移り住んだ(50歳の時)
・忠敬は深川と江戸城の間にある、江戸の新川に薪問屋も所有していた
・忠敬は江戸幕府の天文学者・高橋至時(19歳年下)の弟子となり、暦や天文の勉強を開始した。
・1800年北海道(蝦夷)から測量を開始(忠敬55歳の時)
以後約17年にわたり日本全国を測量した(第一次〜第十次測量)
・1818年江戸で死去。73歳であった。
・地図の完成前に亡くなったため、忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められた。
・1821年『大日本沿海輿地全図』は完成し、作成者の名は伊能忠敬と定められた。
・師の高橋至時の側で眠りたいという本人の意思を受け、お墓は上野源空寺にあるそうです。
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