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MIZUNAの部屋 この韓国人被爆者は、広島で日本人と同じ生活を送り小学校にも通っていました(笑) [政治]

MIZUNAの部屋 この韓国人被爆者は、広島で日本人と同じ生活を送り小学校にも通っていました(笑)
http://mizunamayuneko.blog.fc2.com/blog-entry-2377.html より

http://blog-imgs-114.fc2.com/m/i/z/mizunamayuneko/20170808094234fef.jpg
中央日報に韓国人被爆者の記事が掲載されています。
これ読んで韓国人は「あれ?おかしいな!」と思わないのかな?

彼らの主張は以下です。
① 日帝は朝鮮人を強制徴用した。
② 朝鮮人に過酷な労働を強いた。
③ 低い賃金と粗悪な食料で奴隷のようにこき使われた。
④ 命令に従わないものはリンチに遭い殺された。
⑤ 持ち場から離れることは許されず、脱出は不可能だった。
という言葉がありますが
まあ、いろんな意見があるでしょうが、とりあえずこれらを、韓国人の主張とします。

で、
記事の中で、
「当時、広島のある小学校に通っていたチョさんはその日の朝、騒がしいサイレンの音に目覚めた。月曜日の朝の空はとりわけ快晴だった。あまりにも空襲警報がしばしば鳴っていた時期だったので待避はしなかった。」

とあります。
当時、小学校に通っていたんですね。もちろん民族学校なんてありませんでした。尋常小学校というか国民学校に通っていた。ということは、朝鮮人は日本社会で普通に生活し、学校に通っていたということです。
それにしても、朝8時過ぎから朝食で、学校間に合うのか?(笑)
それから、「空襲警報」と「待避」という言葉がありますが、朝鮮人も、日本人と同じように、空襲警報が発令されれば、防空壕に待避出来たんですね。

この文章を読む限り、朝鮮人が激しい差別や虐待を受け蔑まれていたという、
彼らが主張する「悪魔のような日本」は読み取れないですね。

次!
「午前8時が過ぎるとサイレンの音がだんだんなくなった。チョさんの家族が朝ご飯を食べるために食卓を囲んで集まったその時だった。「ドン」という音と同時に壁掛け時計が左右にひどく揺れた。地震が起きたかのように家全体が揺れ、窓の外では巨大なキノコ雲が上がった。」

8時過ぎから朝食ですね。
家族は朝ご飯を食べるために食卓に集まった。

あれ?
親は何していたんだろう?
強制徴用されていたから、牢屋のような監禁部屋で生活していたのでは?
推測するに、強制労働には従事していませんね。
8時過ぎに朝食で、それから出勤?
えらい「のんびりした」生活ですね。
敗色濃い1945年。
日本国民全員が質素な生活を強いられていた時代・・・。
8時過ぎに一家でのんびりと朝ご飯!

「どん」という音がしてから地震のような揺れ、窓の外にキノコ雲・・・
爆心地からはかなり離れていたと推測できます。

次!
「真っ赤な火柱が立ち昇った。台風が来たかのように風が吹きつけると突然真夜中のように四方が薄暗くなった。さじを手に握ったまま父や母、兄たちについて防空壕まで這って行った。風がどれほど強かったのか、体をまともに支えることができないほどだった。空には大きな火だるまが飛んでいたが、その中で2つが村の海辺に落ちた。海水がグツグツ沸いた」

原爆が炸裂した100万分の1秒後に、半径2〜3キロ以内にいた人間は2000℃以上の熱線に晒され蒸発します。
炸裂1秒後にキノコ雲。
赤い火柱はキノコ雲形成の初期段階です。
この朝鮮人家族の家は爆心地よりかなり離れていたので、
「どん」という音を聞いた頃には、すでにキノコ雲は立ち上っており、赤い火柱なんて見えるはずがない。
そして、数秒後にマッハを越えるスピードで衝撃波が来るわけで・・・
音速は340mですが、
衝撃波のスピードはもっと速い。
爆心地から5km離れていたとしても、10秒以内に衝撃波を受けることになります。
「どん」という音を聞いてから10秒ほどで、防空壕に向かっていますね。
10秒以内に危険を察知し、防空壕目指して逃げる・・・。
こんな迅速な行動・・・
まず無理。

「空には大きな火だるまが飛んでいたが、その中で2つが村の海辺に落ちた。海水がグツグツ沸いた」
ですが、
熱線による被害も衝撃波の被害も無いほど離れた場所の上空に、「大きな火だるま」なんて飛んでいるはずないですね。
そのうち2つが海辺に落下して、海水がグツグツ沸いた?
台風のような強風に耐えながら必死に防空壕目指し「這って」移動しているのに、火だるまが海辺に落ちてグツグツ沸く様子なんて見ること出来ないでしょう?

次!
「台風が来たかのように風が吹きつけると突然真夜中のように四方が薄暗くなった。」
ですが、
台風のような風が吹きつけ、それから突然真夜中のように薄暗くなる?
まず、なぜ真夜中のように薄暗くなるのか?
雨雲が空を覆い、黒い雨が降り出すのは原爆炸裂後30分頃ですね。
当然、その頃、衝撃波と爆風はありません。
それにしても「真夜中のように薄暗い」って、おかしくないか?
真夜中は真っ暗だろ?

結論としては、
① この韓国人被爆者の家族は戦時中でありながら、朝8時過ぎから一家全員で朝食をとるような生活をしていた。
② 父親は強制労働を課されていたのではなく、収入を得ることが出来る何らかの仕事に従事していた。
③ ということは、地域に馴染み、日本人と同じかそれ以上の生活を送っていた。
④ 朝鮮人も学校に通っていた。
⑤ 朝鮮人も防空壕に待避出来た。
⑥ 戦時中でありながら、親も子どもも朝8時過ぎから朝食を摂っていた。
⑦ 原爆の描写は、全くの「作り話」である。

ということで、
この韓国人は
① 強制徴用による過酷な生活は無かったと説明しています。これは正しい。
② 原爆投下直後の描写は、科学的に検証して「あり得ない」ことばかりなので、誰から聞いたか吹き込まれた話をそのまま喋っていると考えられる。

アホですね。
多くの朝鮮人が被曝したという話をアピールしたいあまり、
強制徴用とは全くかけ離れた当時の朝鮮人の生活を喋ってしまっています。

ところで、
韓国人は、日本は野蛮な国で、日本人は残虐といいますが、
そんな日本になぜ、住んでいたのでしょう。
日本人が本当に残虐な民族なら、この韓国人もリンチにあってとうの昔に殺されてしまっているでしょうし、日本には普通に居住する朝鮮人なんて1人もいなかったのでは?

また、現在日本には60万人ほどの在日がいますが、
なぜ、殺されるかもしれないほど危険な日本に住んでいるのでしょう?
私が韓国人なら、真っ先に本国に逃げ帰ると思います。

中央日報より
・・・転載開始・・・
広島原爆投下から72年…韓国人被害者「昨日のように覚えている」(1)
http://japanese.joins.com/article/077/232077.html
2017年08月07日09時26分

[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版] comment16 sharemixi
幼いごろ、広島に住んでいた時に原爆被害に遭ったチョ・オギさん(80、女)。 チョ・オギさんは72年前の「その日」を昨日のように覚えている。当時、広島のある小学校に通っていたチョさんはその日の朝、騒がしいサイレンの音に目覚めた。月曜日の朝の空はとりわけ快晴だった。あまりにも空襲警報がしばしば鳴っていた時期だったので待避はしなかった。

午前8時が過ぎるとサイレンの音がだんだんなくなった。チョさんの家族が朝ご飯を食べるために食卓を囲んで集まったその時だった。「ドン」という音と同時に壁掛け時計が左右にひどく揺れた。地震が起きたかのように家全体が揺れ、窓の外では巨大なキノコ雲が上がった。

「真っ赤な火柱が立ち昇った。台風が来たかのように風が吹きつけると突然真夜中のように四方が薄暗くなった。さじを手に握ったまま父や母、兄たちについて防空壕まで這って行った。風がどれほど強かったのか、体をまともに支えることができないほどだった。空には大きな火だるまが飛んでいたが、その中で2つが村の海辺に落ちた。海水がグツグツ沸いた」

外でシャツを解き放して暑さを冷ましていた叔父は爆発熱と放射能にそのまま露出して激しい火傷をした。それから被爆後遺症に苦しめられて早く亡くなった。その後に生まれた叔父の子供たちはみんな精神障害を病んだという。チョさんは室内にいて大きな災いには遭わなかったが、後遺症は残った。

「その日から小さい音にもびっくりしてしょっちゅう目が覚める。不安障害を病んでいるから心筋梗塞が発病して日本に行って治療も受けた。約20年前からは帯状疱疹も生じたが、治療しても効果がなかった。今は神経痛を病んでいる」

米軍のB-29爆撃機が世界最初の核兵器である「リトルボーイ」を広島上空に投下したのは第2次世界大戦が最終段階に至った1945年8月6日だ。爆発によってできた雲は16キロメートル上空まで上がり、半径1.6キロメートル以内のすべてが焦土化した。広島に住んでいた韓国人約2万人が死亡した。3日後に投下された長崎原爆による被害者まで合わせれば、韓国人原爆被害者は計5万人に達する。今年7月現在、2358人の原爆被害者が生存している。

韓国原爆被害者協会は広島原爆投下から72年となる6日、韓国東南部の慶南陜川(キョンナム・ハプチョン)に「陜川原爆資料館」を開館した。韓国で初の原爆被害者資料館で、被害者の陳述資料などを集めた。現在、生存している原爆被害者の25%程度が陜川に住んでおり、陜川は「韓国の広島」と呼ばれている。陜川原爆被害者福祉会館では第72回原爆犠牲者追慕祭が開かれて亡くなった原爆被害者の御霊を慰めた。5日、広島現地でも韓国人原爆犠牲者に対する慰霊祭が開かれた。慰霊祭に参加した徐張恩(ソ・ジャンウン)駐広島総領事は「(原爆被害者の)犠牲を絶対に忘れず、我々を脅かしている核兵器の恐怖に立ち向かって戦っていく」と述べた。

大韓赤十字社は原爆被害生存者の健康診断を支援して診療費・診療補助費・援護手当などを支給している。被害者が亡くなる場合、遺族に葬儀費も支援している。原爆被害者に申告されていない人もさらに受け付けている。爆発当時、2キロメートル地域以内にいた人と胎児などが対象だ。昨年成立した「韓国人原子爆弾被害者支援のための特別法」が5月30日から施行され、被害者の年齢と都合などに関する実態調査と医療支援の法的根拠も設けられた。

2002年、日本で援護法が改正されたことを受け、長くて数十年間援護手当を受けることができなかった被害者も遡及支援を受けることが可能になった。チョさんも毎月30万ウォン(約2万9000円)前後の援護手当を受けている。だが、日本政府を相手に被害事実を立証するためには依然として困難がある。チョさんも当時の被害事実を立証するために私費を投じて広島に行ってきたという。カン・フィウ韓国原爆被害者協会長は「今後、時間があまり残っていない被害者のために関係機関がより積極的に取り組んでほしい」と話した。
・ ・・転載終了・・・
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